中谷 武
中谷 武
まず村田氏が水俣病問題に40年以上にわたって粘り強く取り組んでこられたことに感銘を受けると共に深く敬意を表したい。水俣病問題は学生時代に書物を通して初めて知ったが、その後永きにわたって被害は続き拡大してきた。半世紀に及ぶ熊本や新潟など現地の被害者や関係者を中心に多くの方々の努力によって広く知られるようになり、ようやく2004年になって最高裁判決で勝訴に至った。しかし、その間に多くの患者が亡くなり、今も救済されず放置されてきた。また、胎児性水俣病など新しい問題が続いている。
- 最高裁判決の勝訴にもかかわらず水俣病を生んだ日本社会の構造は今も変わっていない。当時から有機水銀汚染が原因であることは、チッソはもちろん市や県そして国にも外国の同様の症状報告を通して明らかになっていたはずである。しかし、実態解明が遅れ被害者の苦しみが長期化したのは、原因究明を怠り、調査を妨げ、隠蔽まで行なってきた企業中心の考えがあった。しかし、それだけでなく、行政側や司法の側、そして専門家の中に「被害者の立場に立って考える」ことが出来ない考え方、しない考え方があったように思う。
- その考え方は受忍論といえるのではないだろうか。確かに被害は深刻である。しかし戦後日本の経済復興、重化学工業化は必要であり、それを進めていくためには様々な悪影響が多少生じてもそれは国民がひとしく我慢しなければならない、簡単に言えば国策の前に国民は「耐え忍びなさい」という主張である。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで」終戦に至ったのと同じ主張である。企業はもっと単純にそして露骨に利益中心の立場だったかも知れないが、行政や司法そして当事者以外の多くの国民の中にこの問題を様々なグラデーションを伴いながら明確に被害者の立場に立てなかった。これは受忍論ではなかろうか。
- こう考えると問題は水俣病問題に留まらずもっと広がる。戦争被害や原爆被害に対して軍人や関係者には救済措置をとっても一般国民の被害は放置する。これも「受忍論」である。現在の沖縄に70%の米軍基地が集中し人権無視の被害が続いているが、国は県民の主張は無視する。もっと卑近な(卑近すぎる)例で言えば、私が住んでいる仁川に競馬場があるが、競馬場の客をスムーズに流すために太い道路が整備されようとしている。その影響で立ち退きを求められる住宅、立ち退くことはないが(広く、高くかさ上げされた)道路の陰になって騒音や日照で住宅環境が悪化する家が出る。人々は「あの家は可哀想だね~」とは言うが、恐らく補償はないのではないか。これもレベルは違うが受忍論である。
- 受忍論から脱却するには何が必要だろうか。当日、村田さんは基本的人権の重視を指摘された。基本的人権は戦後新憲法の柱であり、戦前に比べると確かに人権意識は拡がり行政においても進展が見られた。村田さんの主張はこの基本的人権がすべての人に与えられることを如何にして実現するか、別の言い方をすれば人の人権を自分のこととして捉えることが大切だということだ。「被害者の立場にたって考える」ということは大変重要で、実は大変難しいことである。だから水俣病がここまで来るのに半世紀もかかった。
- 水俣病は自動車騒音と併せて1960年代にいわゆる「公害」としてどこの大学でも教えるようになった。ところで公害という言葉は誰がどこで言い出したのだろうか。気になって調べると「公害」は英語圏では、当初予想したpublic diseaseではなくpollution(汚染)が最初に出てくる。また、次にpublic nuisanceも出てくる。これは「公的な迷惑」という意味だから我々が理解する「公害」に近い。英語の専門家に聞かないといけないが「公害」という言葉は訳語として導入されたのではなく、自動車騒音や排水汚染など60年代日本の社会問題から生まれ定着した言葉ではなかろうか。「私害」という言葉はないから「公害」は新造語であろう。「私害」に対しては「私人」「私企業」は責任を問われるが「公」については「私」と距離がある。受忍論に通じると私は感じている。もう一つ、最近「公害」という言葉が聞かれなくなった。死語になったのではないかという意見が出た。私は「死語」とは思わないが確かに使われない。何故だろうか。これも疑問である。
中谷