2007年9月下旬、藩基文事務総長主導による気候変動に関する初の国連ハイレベル会合、続いてブッシュ政権主催の主要排出国会議が開催された。さらに気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とゴア元副大統領の2007年ノーベル平和賞受賞が発表された。これで、12月にバリで開催予定の国連気候変動枠組条約第12回締約国会議における「ポスト京都」の交渉に弾みがついた。
気候変動対策とは、産業革命以降の、特に米国型資本主義経済の構造を、地球の“生命系の能力”を維持しつつ、経済活動を可能とする構造へと転換しなければならないという、人類史上初の挑戦といえる。
気候変動が化石燃料消費から排出される二酸化炭素濃度の増加により起こることをデータ分析とそのインパクト予測等で総合的に最初に提示したのは、1980年発表のアメリカ合衆国政府特別調査報告書『西暦2000年の地球』である。この報告書は1977年にカーター大統領が環境問題諮問委員会と国務省に、「今のような経済活動を続けた場合、2000年の地球と人間生活はどうなるのか、総合的に把握せよ」と命じた調査研究の成果である。
この報告書の内容に刺激を受けた日本政府は、鯨岡兵輔環境庁長官の私的諮問機関「地球規模の環境問題に関する懇談会」を1980年10月に設置した。大来佐武郎元外相が座長のこの懇談会が作成した報告書に基づいて、原文兵衛環境庁長官が1982年5月にケニヤで国連環境計画主催の国連環境会議で行った提案が支持され、1983年12月に国連通常総会本会議で採択された。そして「環境と開発に関する世界委員会」、いわゆる「ブルントラント委員会」の設置へと展開された。これは地球環境問題に関わる国連活動への日本の初めての貢献であった。
3年余を経て1987年4月に委員会報告書『Our Common Future』公表、同年12月に国連総会で決議された。ここで提案された概念「持続可能な開発 Sustainable Development」は1992年の国連環境・開発会議(リオ・地球サミット)における基本概念となった。
このように、今年2007年は、1977年のカーター大統領命令から30年目、1987年の『Our Common Future』発表から20年目、1997年の気候変動枠組み条約会議で「京都議定書」が採択されてから10年目という節目の年である。
そして、来年2008年にG8サミット開催国となる日本は、地球規模の資源・環境の持続性と世界の人々の安寧に関しての未来のビジョンを見据えながら、「ポスト京都」の議論と交渉において主導的な役割を果たすべく準備を開始しなければならない重要な年でもある。
20世紀は人類がはじめて歴史的な物質的欠乏感から解放されるという経験を持った世紀である。それは人類のすべてではなく、世界人口の5分の1ほどの人たちについてだけであり、またそれが「消費の民主化」により現実のものになったのは世紀の後半になってからである。しかしその過程で、公害のような地域規模の問題から、温暖化のような全地球規模の問題まで、環境問題は大きな拡がりを見せている。
これからの10年間が、地球と人間の未来を左右する。その鍵は、工業先進国の政治家・指導者たちの覚悟と戦略、そして多様なアクターや市民一人ひとりの過剰な消費生活を変えようとする意識と行動にある。
『学際』の読者の皆さまに大きな期待を込めてこの特集を企画した。
環境と開発に関する世界委員会(WCED―委員長の名をとって「ブルントラント委員会」とも呼ばれる)は、1987年2月に第8回目に当たる最終会合を東京で開き、報告書の原案を了承するとともに、東京宣言を採択して閉幕した。この報告書は“Our Common Future”と題して同年4月にロンドンで出版・発表され、大きな反響を呼んだ。
同報告書(以下、「ブルントラント報告」と称する)は、「持続可能な開発(発展)」の概念を誰にも分かりやすい言葉で簡潔に定義づけたものとして、あまりにも有名である。ブルントラント報告によれば、持続可能とは、「将来の世代が自らのニーズを充足する能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすこと」である。
この概念・理念と定義はその後、先進国首脳会議(G7サミット)や国連総会でも支持され、ブルントラント報告もきっかけの一つとなって1992年にリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国連会議」(UNCED、別名「地球サミット」)の合言葉にもなり、そこで採択された「環境と開発に関するリオ宣言」や21世紀に向けた世界の行動計画「アジェンダ21」の中でも持続可能な開発のためのグローバル・パートナーシップがうたわれている。これと相前後して国際商工会議所(ICC)は数度にわたる世界産業会議を開き、「持続可能な開発のための産業憲章」を採択した。また、地球サミットの準備の一環として「持続可能な開発のための経済人会議」が設置され、『進路を変えよう』と題した報告書が出版された。
The World Commission on
Enviroment and Development
"Our Common Future"
Oxford Uiversity Press,1987
環境と開発に関する世界委員会
大来佐武郎監修
『地球の未来を守るために』
福武書店、1987年
これらすべてをブルントラント委員会の成果に帰することはできないが、持続可能な開発の概念についてのこの定義づけとその実現のための戦略目標・政策提言が世界各国、各界の広範な支持を受けたからこそ可能になった面があることは否定できないだろう。
ブルントラント報告は、報告書全体を要約した序章に始まり、第1章から第12章まで、全部で13章から成っている。序章のタイトルは“From One Earth to One World”(「地球は一つ」から「世界は一つ」へ)となっており、出版された報告書のタイトル“Our Common Future”や内容とも見事に呼応している。1972年のストックホルム人間環境会議の標語となった“Only One Earth”(かけがえのない地球――この日本語訳もまた名訳である)に比肩する名タイトル、名標語であると私は思う。
第1章「脅かされる未来」は、現在の人類社会が直面する危機の徴候と原因を探り、環境と開発に関する新たなアプローチの必要性を説いたものである。第2章では、上述したように持続可能な開発の概念を定義するとともに、その達成に向けた7つの戦略目標を掲げている。持続可能な開発の定義について付言すると、それが2つの鍵となる概念を含んでいることが指摘されている。一つは、何にも増して優先されるべき世界の貧しい人々にとって不可欠な「ニーズ」の概念であり、もう一つは、技術・社会的組織のあり方によって規定される、現在および将来の世代のニーズを満たせるだけの「環境の能力の限界」という概念である。こうした認識から、7つの戦略目標が導かれる。(戦略目標の詳細については後述)
第3章においては、持続可能な開発に向けた国際経済の役割を検討し、1.開発途上国への資金の流れの増大(援助資金、国際金融)、2.貿易、環境、開発の結合(国際商品取引、保護主義の修正と貿易、汚染集約型製品の削減、多国間貿易フォーラムの役割の強化)、3.多国籍投資における責任の確保、4.技術的基盤の拡大(環境上健全な技術の普及、発展途上国における技術能力の向上・蓄積)等の提言を行っている。
以下、第4章から第11章まででは、人口と人的資源、食糧安全保障、種と生態系、エネルギー、工業、都市問題、全世界共有財産の管理、平和と安全保障等の各論的課題を取り上げ、持続可能な開発の達成に向けてそれぞれの分野における政策の立案・調整と分野横断的な政策統合の必要性を訴えている。
最終章の第12章「共同の行動に向けて」では、制度・組織・法制上の改革として、1.原因への取組み(主要な官庁が自らの責任として政策、計画、予算、その他の活動と目標の中に環境を統合すること)、2.影響への取組み(環境・資源管理担当省庁の役割と能力の強化)、3.地球的リスクの評価、4.十分な情報に基づく選択(幅広い市民各層の参加)、5.法的手段の整備(環境保全と持続可能な開発に関する世界宣言と条約)、6.未来への投資(国際共有資源と自然資源に対する追加的財源の供給)等の提案を行っている。
「東京宣言」は、これらの戦略目標や政策提言を整理・要約して8つの原則にとりまとめ、持続可能な開発のための政策行動の指針として提示したものである。
ブルントラント委員会の成果としては、ややもすると持続可能な開発の定義づけに目を奪われがちであるが、委員会設置の主目的は「西暦2000年までに持続可能な開発を達成し、また、これを永続するための長期的戦略を提示すること」にあった。そこで、第2章において、持続可能な開発のための戦略的目標として、次の7つが掲げられている。
これらの戦略目標に優先順位はつけられていないが、成長の回復が第一番目に挙げられていることから、経済発展を至上命題とする開発途上国の要請に沿ったものだとか、成長重視の戦略だとかいう誤解を生みやすく、事実そのような批判がなされてきた。しかし、ブルントラント委員会は同時にその成長の質の変更を求めているのであり、開発の中身を問うているのである。ただし、かつてのゼロ成長論者やコチコチの環境保護論者の主張とは違うという意味で、先進国、途上国双方の政府や産業界から歓迎された面があることも事実であろう。実際にも、時代を経るとともに数々の国際的な場において持続可能な開発と経済の持続的成長を同一視するような発言や宣言文が多くなってきたのは気になるところである。
戦略目標全体が開発・発展の長期にわたる持続可能性に焦点を当てていることから、世代間の衡平性ばかり強調しているように見えるが、それが同時に各世代の中における衡平をも含む概念であること、特に南北間の衡平を重視している点に留意しなければならない。また、貧困の削減と人間の基本的ニーズの充足をうたうところから当然に導かれる論理として、社会的衡平性と政治・経済的な民主制・民主的手続きの重要性を強調するものとなっている。
結論として、持続可能な開発を追及するためには、次のことが必要であるとしている。
つまりは、あらゆる既存の政治・経済・社会システムの見直しと改革が必要とされているのである。
これらの戦略目標や目標達成のための制度改革・政策提言については、多くのものがリオ宣言およびアジェンダ21の中に盛り込まれた。例えば、リオ宣言の第4原則は、「持続可能な開発を達成するため、環境保護は開発過程の不可分の部分とならなければならず、それから分離しては考えられないものである。」とうたい、第5原則は「すべての国および国民は、生活水準の格差を減少させ、世界の大部分の人々の必要性をより良く充たすため、持続可能な開発に不可欠なものとして、貧困の撲滅という重要な課題において協力しなければならない」としている。さらに第8原則は、「すべての人々のために持続可能な開発及び質の高い生活を達成するために、持続可能でない生産及び消費の様式を減らし、取り除き、そして適切な人口政策を推進すべきである。」とし、第10原則では情報へのアクセスと意思決定過程への参加、第17原則では環境影響評価制度の導入と確立を呼びかけている。最後に第27原則は、「各国及び国民は、この宣言に表明された原則の実施及び持続可能な開発の分野における国際法の一層の発展のため、誠実に、かつパートナーシップの精神で協力しなければならない。」としている。
アジェンダ21の各章でも、貧困の撲滅、消費形態の変更、意思決定における環境と開発の統合、持続可能な農業と農村開発の促進、生物多様性の保全、女性・青少年・先住民・労働者等、主たるグループの役割の強化、実施手段としての資金メカニズム、環境上適正な技術の移転・技術協力及び対処能力の強化など、ほぼブルントラント報告の戦略目標や政策提言に沿う形で行動計画が定められている。
その後結ばれた多国間環境協定の中では、必ずと言っていいほど持続可能な開発の達成が目的の一つに掲げられている。同じ地球サミットの場で調印された気候変動枠組み条約は、その前文で「すべての国(特に開発途上国)が社会及び経済の持続可能な開発の達成のための資源の獲得の機会を必要としていること、並びに開発途上国がそのような開発の達成という目標に向かって前進するため、・・・」とうたい、条約本文の3条(原則)4項では、「締約国は、持続可能な開発を促進する権利及び責務を有する。」と規定している。また、この枠組み条約の下で締結された京都議定書は、付属書Iの締約国(先進国)と非付属書Iの締約国(途上国)の間で行われる排出量削減または吸収量増大のための事業活動「クリーン開発メカニズム(CDM)」が、「非付属書Iの締約国が持続可能な開発を達成し及び条約の究極的な目的に貢献することを支援すること」を目的とすると規定している(12条2項)。
また、1995年には国際自然保護連合(IUCN)が、ブルントラント委員会の法律専門家パネルの提案に沿って「持続可能な開発のための国際規約」の草案を作成し発表した。同じ1995年に発効した世界貿易機関(WTO)の設立協定(マラケシュ協定)の前文にも、「この協定の締約国は、・・・・・経済開発の水準が異なるそれぞれの締約国のニーズ及び関心に沿って環境を保護し及び保全し並びにそのための手段を拡充することに努めつつ、持続可能な開発の目的に従って世界の資源を最も適当な形で利用することを考慮し・・・」と規定され、自由貿易の拡大推進を大原則とするGATT/WTO体制の中でも持続可能な開発の達成を共通の目標とすることが初めて明らかにされた。
さらにその後、2000年のミレニアム・サミットで合意された8つの「ミレニアム開発目標(MDG)」のうちの1つが「環境の持続可能性の確保」とされ、その他の目標や18のターゲットもほぼすべてが何らかの形でブルントラント報告の戦略目標や政策提言に関連したものとなっている。2002年の「持続可能な開発に関する世界サミット」(WSSD、ヨハネスブルグ・サミット)では、持続可能な開発が環境と経済と社会の3本の柱からなることが再確認されるとともに、アジェンダ21のさらなる集中的な実施計画が採択された。
国の憲法や基本法その他環境保全・資源管理に関係する法律の中で、持続可能な開発に言及するものも増えてきた。わが国では、地球サミットの翌年(1993年)に従来の公害対策基本法に代えて新たに環境基本法が制定された。同基本法は、(現在及び将来の世代による)「環境の恵沢の享受と継承」、「環境への負荷が少ない持続的発展が可能な社会の構築」および「国際的協調による地球環境保全の積極的推進」の3つを基本理念としてうたっている(同法3条〜5条)。
今日では、学術研究においても物理・化学、生物・生態学等の自然科学のみならず経済学、社会学、政治学、文化人類学等、人文学・社会科学の各分野で持続可能な社会や持続可能性がキーワードとして枢要な位置を占めるようになり、「持続性学」という新しい学際的な研究領域も形成されようとしている。
こうして見てくると、ブルントラント報告は所期の成果を挙げ、持続可能な開発の達成が世界共通の目標となり、各国および国際社会の様々な政策・計画・制度・組織の中に取り入れられ、そこで提案された戦略・政策や制度改革が着実に推進されているように見受けられる。しかし、環境と開発の現状はどうであろうか?
確かに一部の国や地域においては、特定の汚染物質による大気・水質の汚染など、限られた分野で改善の傾向が見られるものの、全般的にはむしろさらに悪化しつつあるというのが実情であろう。地球環境全体としてはなおさらのことである。また、国内経済の改革・開放とグローバル化の進展に伴い、著しい経済発展を遂げる国も現れたが、むしろ急速な経済成長とグローバル化の負の側面を色濃く映し出している国や国民も多く、先進国・途上国間のみならずそれぞれの国内でも格差が広がりつつある。各種の条約が結ばれ、法制度や組織は整備されたものの、ガバナンス能力に欠けている政府や企業も多い。地球温暖化が進行し気候変動をもたらしていることはすでに科学的にも確認されたが、世界最大の排出国であるアメリカは京都議定書から離脱したままであり、中国、インドなどの大量排出途上国は、次期枠組みの交渉において何らかの削減義務を負わされることを極度に警戒している。こうした現状を見て、次世代を担う若者はその将来に希望を持てるだろうか? 大半の若者にとって答えは否、と言わざるを得まい。
しかし、持続可能な開発(発展)は選択の問題ではない。明るく健全な未来を共有するためには、すべての国や地域、政府、企業、非政府組織、そして市民一人ひとりが、持続可能な開発(発展)の実現を目指して努力し、互いに協力するしかないのである。地球温暖化、森林破壊、砂漠化の進行、劣悪な都市環境、荒廃する農山村、第3・第4のエネルギー危機、枯渇する水資源など、迫り来る人類社会の存続と地球環境の危機に対してどう取り組んでいくのか、各主体が具体的に行動を起こす中でこそブルントラント報告の真価が発揮されることになろう。それこそ、20年前にブルントラント委員会が「今こそ行動を」と訴えたことなのである。
「環境と開発に関する世界委員会」は日本の提案である。日本が国連に提案した2番目のプロジェクトだということを外務省で聞いた。
委員会が発足して1年ほど経った頃、いつものように大来佐武郎さんのお伴をして会合に出ていた。朝食をご一緒しながら、ふと、ずっと開発に携わってきた大来さんなのに今どうして環境に熱心なのか聞いてみた。ふふっと笑いながら「罪滅ぼしですかね」と言ってから、真面目な顔で「日本も戦後の貧しい時代からなんとか頑張って豊かになった。衣食足りて礼節を知るというが、国にも品格が必要だ。動物を保護することや環境に配慮することは品格にかかわる問題だ。これからの日本は品格のある国家として、環境保護のために努力しないとね」とおっしゃったのだった。わが意を得たり、これは何としても委員会を成功させなくては、と思ったものだった。
第2次大戦後、植民地は独立、経済は進展し人口は急速な増加を見せた。1972年、ローマクラブはレポート『成長の限界』を発表した。ローマクラブにはわが国から何人か参加したが大来さんはその一人であった。米国ではカーター大統領(当時)の命により、資源問題を含め地球の全般的な環境を総合的長期的に展望した「2000年の地球」と題する研究が行われ、80年7月に報告書が発表された。環境庁はこのレポートにいち早く着目し、わが国としてもこの問題へ対応する必要性を強く認識した。早速、同年9月には鯨岡環境庁長官により学識経験者からなる「地球的規模の環境問題に関する懇談会」が設置され座長を大来さんにお願いした。同懇談会は同年12月に最初の報告書を、さらに、82年4月には「地球的規模の環境問題への国際的取組について−国連人間環境会議10周年に当たって−」を環境庁長官に提出した。
この報告書の趣旨は、地球的規模の環境問題を解決するためには国連にUNEPではない新たな組織を創設し、そこで検討するのがよい、とするものであった。この報告書を踏まえ、原文兵衛環境庁長官は同年5月、ストックホルムからの10年を記念しナイロビで開催されたUNEP管理理事会特別会合において日本政府を代表して、地球的規模の環境問題についての国際協力の必要性を強調し、更に21世紀の地球環境の理想像を模索するとともに、これを実現するための戦略を長期的かつ総合的な視点から検討する特別委員会の新設を提案した。しかし、当時、アフリカはサヘル地域(サハラ砂漠南部の半乾燥地)を中心に厳しい旱魃に見舞われ多くの人々が飢餓に苦しむ中、砂漠化への対策は十分ではなかった。新しい財源を必要とするプロジェクトの提案はアフリカを中心とした途上国の理解を直ちに得ることは困難であった。
翌1983年の管理理事会では、わが国を中心とした提案国の説得努力が実り、提案は採択された。環境庁はただちに、主としてこの委員会を担当する調査官を国際課に配置し、委員会の設立から報告書の完成まで、委員会をサポートする体制を整えた。第38回国連総会に提出された特別委員会設置決議案は12月に決議され、この国連環境特別委員会が報告書を総会に提出するまでの時限組織であること、必要経費は任意拠出によることが決まった。UNEPのトルバ事務局長は、総会の決議を受けて直ちに委員会の設置、中でも最重要の委員長選任にかかり、提案したわが国も重大な関心を持って成り行きを見守った。
紆余曲折の後、83年の暮れに事務総長はトルバ氏の推薦を受け、ノルウェーの労働党党首であったグロ・ハーレム・ブルントラント女史を委員長に決めた。女史は1974年環境大臣に就任、77年の総選挙に立候補して初当選。81年には首相に就任した。首相退任後の98年4月にはWHO事務局長に就任し、世界の禁煙運動をリードした。
女史は委員長を引き受けるにあたり、他の機関や各国政府からの干渉を受けない、独立した委員会とすることを条件とした。そしてこれはUNEPとの不協和音を生みつつも、委員会が終わるまで貫かれた。
委員長は早速事務局の所在地をジュネーブと定め、事務局長にはOECD環境局長であったジム・マクニール氏の移籍を決めた。委員長が先進国から選任されたので、副委員長は途上国からUNEP推薦の元スーダン外務大臣ハーリド氏が選任された。委員の構成は国連バランスに従って、各国の推薦等を踏まえながら21名が順次選任されていった。当然大来さんも日本政府推薦として委員に就任することとなった。また、提案国として、委員会が成功裏に終了することを確実にするためには事務局の役割が極めて重要であることから、事務局次長クラスの専門家として環境庁から加藤久和氏を派遣した。1984年5月、準備会合をジュネーブで開催し委員会はスタート。なお、事務局は7月に店開きをした。そして10月、ついにジュネーブでの第1回会合開催にこぎつけたのであった。以降、出来るだけ各大陸を回り、公聴会を開いて市民の声を聞くため、85年にはジャカルタ、オスロ、サンパウロ、86年にはオタワ、ハラレ、ナイロビ、モスクワと会合を重ね、最後に87年2月、東京会合で報告書がまとめられることになった。
ブルントラント委員長により委員会についてのいくつかの原則が決まった。まず、委員会の名称は「環境と開発に関する世界委員会」(WECD)となった。また、委員会の独立性を重んじ、各国政府等の干渉を排除し自由な討議を保障するため会合は非公開とした。ただし、ノルウェーからは複数の委員長補佐が、提案国である日本からは大来委員の補佐として筆者が、米国のラッケルズハウス委員の補佐として国務省担当者が、あくまで委員の補佐として例外的に出席を許された。
任意拠出に頼る財政は、当初予定していた300万ドルが最終的には倍近くに膨れ上がり、非常に厳しい状況になった。この窮状を救うため、元外務大臣の大来さんを煩わし、急きょ外務省に追加拠出を働きかけたものであった。提案国である日本は、結局、経費の半分を拠出した。残りの半分を、カナダ、デンマーク、フィンランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイスが拠出したが、遺憾ながら米、英、仏、ソ連、中国等の諸国からの拠出はなかった。
報告書の名称は、委員会のスタート時点から“Our Common Future” とされた。内容についていくつかコメントすれば、まず、この報告書のキーワードであるsustainable development(SD)についてである。われわれは持続可能な開発と訳したが、報告書の定義を敷衍すれば、環境の状態が破綻することなく将来にわたり維持されるような開発、とでもなろうか。未来を共有する人類全体にとっては、生存の基盤である地球環境が将来とも生存を保障してくれなくては困るのだ。トータルとして見ればそれは可能なのだ、というのが委員会の主張である。また、SDは部分でも目標とすることを求めている。しかし、現実はなかなか難しい場合が多い。例えば、わが国を見れば、鎖国により食糧自給率100%の状態を維持し200年で人口も1.5倍しか増えなかった江戸時代はまさにSDのお手本である。しかし、人口も100年で4倍となり自給率も穀類ベースで30%となった現状はとてもSDの状態ではない。自給率を上げればよい、という荒唐無稽な議論が永田町などで安易に流れるが、そう簡単に人口を何千万人も減らせないし、有り余るエネルギー供給でもない限り、農地の拡大を含め自給率が改善するほどまで生産量を増やすことはできない。7割の日本人が国土以外の環境に依存して生きている状況を簡単に変えることができない。さればこそ、地球全体のSDは是非とも達成される必要があるのだ。そのために日本人がやるべきことは、自給率を上げることではないことは自明である。
従来、環境対策は大気汚染、水質汚濁、動植物の保護などの事象ごとの対策を議論してきたが、地球的規模の環境問題を解決できていない。21世紀の地球環境保全のために、この報告書では、人口、食糧、生態系、エネルギー、工業、都市といった基本の政策レベルに切り込む必要があるとし、その中で解決策の検討がなされた。例えば、地球温暖化対策の一環としてバイオエタノールがもてはやされているが、食糧、エネルギー、生態系の観点からの十分な検討もないまま導入推進の方向のみが目につく。これを代替エネルギーの一つとして安易に導入することは、SDに反し世界の食糧や自然生態系に重大な影響を及ぼす可能性がある。また、石油取引の全体から見ればほんの一握りの米国の原油先物取引であるWTIに原油価格を左右され、投機によって価格が高騰し、結果としてバイオエタノールの流通が可能になっているのかも知れない。2007年は暑かったからか、テレビなどでセンセーショナルな地球温暖化議論が横行した。むしろ、2008年、京都議定書の目標年を迎えるにあたり、わが国は温室効果ガスの削減目標をどう達成するのか世界へ向けて真摯に説明しなければならない。それがなければ2050年への半減計画などは説得力を持たない。
委員会は意思を明確に提示するため、報告書の中では結論や方向性は一つにまとめることとした。しかし、1986年4月にソ連のチェルノブイリ原発が重大な事故を起こし、原子力利用については深刻な激論の末結論を一本化できず、推進、慎重、廃止の3論併記となった。この議論に時間がかかり残念ながら東京会合での報告書の発表は間に合わなかった。発表会は2ヶ月後の87年4月、ロンドンで行われ、その年の秋の国連総会に提出された。総会はその成果を高く評価し、92年にリオデジャネイロにおいて地球サミットを開催することを決議した。
それから早くも20年が経った。大来さんも今は亡く、地球環境保全は世界の常識となったかに見えるが、委員会の真の意図は実現しているだろうか。
国連の環境と開発世界委員会(委員長 ブルントラント・ノルウェー首相)は、1987年2月27日、「われら共有の未来」と題する報告書を、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで発表した。当時筆者は環境破壊を主に、東京の都市問題の取材を担当する毎日新聞社社会部記者であった。
「ノー・オーダー、ノー・ユニティ。ノー・ユニティ、ノー・コミュニティ。都市計画なき都市づくりをしようという戒むべき見本だよ。中曽根(首相)がその元凶だが。」
東京都首都整備局長と建設局長をつとめた山田正男の言である。
当時、中曽根康弘首相は行財政改革を断行し、規制緩和により民間活力の導入を図る一方、過度な輸出が世界経済の秩序を撹乱する、とする日本への非難をかわすことに腐心していた。そして、内需拡大と民間活力の増大の舞台を、東京港臨海部の開発計画に求めた。
それに呼応して東京都知事鈴木俊一もまた、85年4月世界テレポート東京会議を主催、24時間情報が飛び交う国際情報通信時代に、東京を世界中の人々、経済活動が交流しあう国際的な拠点都市、そしてロンドン、ニューヨークと並ぶ国際金融都市として機能させるために、臨海部13号埋立地を主舞台に、新しい都市の装置であるテレポートの建設構想を打ち上げていた。
この状況が示すように、バブル経済の中核である巨大開発構想の震源地は、中曽根康弘首相、即ち日本政府の規制緩和、民活政策と、鈴木俊一東京都知事、即ち日本の首都の都市計画に起因していた。特に鈴木都知事が明らかにした東京テレポートタウン構想の現場、13号埋め立て地に関心が集中した。13号埋め立て地は東京駅から直線距離で約6キロ、新宿、渋谷と同心円上の位置にある。
船の博物館前(江東区青海1丁目、13号地その1)の地価は、開発計画が打ち上げられるたびに値を上げた。都心の地価狂乱も加わって、1平方m32万5000円(85年2月)が87年の2月1日になると65万6000円、88年の2月には134万5000円へとハネ上がっていった。
社会経済国民会議(議長・稲葉秀三)や、建築家・黒川紀章らの「グループ2025」による途方もない規模の東京湾埋め立て計画などに対して、環境庁の東京湾開発・環境保全専門部会(座長・川上秀光東大教授)は、「もしも一連の埋め立て開発計画が実行されたら、自動車交通量が増えて窒素酸化物による大気の汚染がひどくなり、廃棄物が激増する。東京湾の臨海部には未利用の埋立地が2500haも残っており、都市開発のための新規の埋め立てはもう必要ない」と反発した。
ブルントラント委員会の東京会議で挨拶した中曽根首相は、「エネルギー、資源の大量消費と人口増大などを背景に、熱帯雨林の破壊や砂漠化の進行など深刻な環境破壊の大きさを考えるとき、修復と将来の環境保全になさねばならぬことは多い。日本は世界人類の共有財産である地球環境の保全のため技術と経験を生かし、一層積極的な役割を果たしていく」と強調した(毎日新聞1987年2月27日夕刊)。
「ノー・オーダー、ノー・ユニティ。ノー・ユニティ、ノー・コミュニティ。」と山田に酷評されている環境を無視した、持続不可能な足許の東京の事態を飛び越えて、中曽根首相は「環境と持続可能な発展」の対象を「人類」と「地球環境の危機」へ飛躍させて話を展開している。
さまざまに異なる解釈、主張を詰め込んだ多様性を有する「持続可能な発展」の概念をその時々の状況に合わせて自己の利益に都合よく解釈し、耳あたりの良い一般論として披露する環境政策のいわばリープ・フロッグ的な展開がこの時から始まる。
朝日新聞は「総花―薄らぐ危機感」の見出しで、報告書の内容と意義を伝えている。
「報告書は人口、食糧、エネルギー、汚染といった問題から、国際経済、平和問題、そして南極から宇宙まで、世界の直面する難題を全て包含している。世界の賢人の労作には違いないが、これだけ並べられると、問題の広がりにかえって危機感が薄らぐ思いがする。出席した委員の一人も指摘するように、これまで議論されてきた総論を再び「総論化」する作業だった。」(朝日新聞1987年2月28日夕刊)ブルントラント委員会に参加した大来佐武郎元外相は、持続可能な発展の必要性を最初に警告したローマクラブ「人類の危機」レポート「成長の限界」(1972年)に関わっただけあり、中曽根首相に比べてバブル真っ盛りの日本社会の環境の状況に目配りが効いていた。
「かけがえのない地球といった考え方が一般に普及し、定着してきたが、地球的規模での環境保全は解決が急がれている国際的な課題だ。特別委員会の報告書は、その指針の役割を果たすことになる。わが国は国内の環境問題だけではなく、アジア地域の野生生物の保護や熱帯雨林の保全、有害化学物質による汚染防止など、対外的に様々な分野で積極的に寄与すべきだし、またその責任がある。それに応えることが、経済一辺倒と非難されがちな日本のイメージアップにもつながるだろう。」(朝日新聞1987年2月16日朝刊)
大来が指摘した「国内の環境問題」と「アジア地域の野生生物の保護や熱帯雨林の保全、有害化学物質による汚染防止」が1987年当時、どのような状況にあったのか、本稿の課題を考える上で認識しておかなくてはならない。
環境庁を脅かしていたのはバブル経済の横行だけではない。1987年当時の「国内の環境問題」は事件噴出の状態であった。環境と開発は調和せず、地域大規模開発を手段にした第一次全国総合開発計画(1962年)以来、高度成長経済政策に基づく都市化、工業化政策は、環境面で持続不可能な状況に陥っていた。
しかし、環境庁は経済界からの強い要請に応じ、大気汚染による公害病の認定患者への医療費などを汚染物質排出企業に負担させた公害健康被害補償法の見直しを進めた。全国41ヶ所の大気汚染指定地域を全面解除し、新たな患者の認定を打ち切った。公害病認定患者は当時10万人に達し、また、認定患者は年間約3000人ずつ増えていた。
これに対して窒素酸化物を中心とする都市型複合大気汚染がいまだ改善を要する状況にあり、健康への影響が懸念される状況にあっては、窒素酸化物による幹線道路沿道の局地的汚染などを考慮することなく一律に削除することは適切でない、と全国の自治体は地域指定の全面解除にこぞって反対していた。
また、環境庁は石綿(アスベスト)による石綿製品生産工場など発生源周辺での高濃度汚染データに基づき、1978年、関係省庁や自治体、業界に排出抑制への配慮を要請していた。
太陽からの有害な紫外線をさえぎる成層圏のオゾン層を破壊し、皮膚がんの発生や穀物の収量減をもたらす有機化合物フロンガスに対し、米国は53年にスプレー類への使用を全面禁止した。続いてスウェーデン、カナダ、ノルウエーなどもスプレー類の製造を禁止、EU諸国も製造の抑制措置をとっていた。しかし年間約10万トン、世界一のフロン消費国日本の環境庁は、ブルントラント委員会報告の2ヶ月前にようやく「成層圏オゾン層保護に関する検討会」を設けるにとどまった。
ブルントラント委報告が公表された87年当時、日本は1国だけで世界の熱帯産材の約45%を輸入しており、多様な生物の種が生息する熱帯雨林荒廃の“主犯”視され、「生態系の略奪者」と国際的な非難を浴びていた。
熱帯雨林の保護と表裏の関係にある多様な生物の種を守るため、絶滅が危ぶまれる野生動植物の国際商取引を規制する「ワシントン条約」の国内法を日本政府が制定したのは、ブルントラント報告直後の1987年8月のことである。なお、日本政府がワシントン条約に加盟したのは、発効5年後の1980年、世界で60番目だった。
84年10月、マレーシアで開かれたワシントン条約アジア・オセアニア地域セミナーでは、同条約の履行を求める対日非難決議が採択されていた。捕鯨(クジラ)、伝統工芸(タイマイ)、漢方(ジャコウジカ)など産業界の利益を優先したためである。
以上の状況から明らかだが、「環境と開発の調和」に基づく持続可能な社会発展を求めたブルントラント委報告は、バブル経済最盛期の日本での経済社会の営みが、国の内外で「持続不可能な発展」の状況にあることを皮肉にも浮き彫りにしてみせた。
他方で1971年アメリカのマスキー法の外圧を借りた自動車排ガス規制策の成功以来、日本の環境行政の伝統的な手法となったかに見える「外患を利用して内憂を解く」方式が、ブルントラント委報告書にも託された。国内の環境問題を、環境サイドだけからの要求では解く力が政治、行政面で不足している時は、「外圧」と世論に力を借りるやり方である。
たとえば熱帯雨林木材貿易への批判に対しては、大来佐武郎自身が委員長を務めた林野庁の諮問機関「熱帯雨林懇談会」の答申に基づいて、「緑の地球経営政策」が打ち出された。持続可能な森林施業により生産された木材に限り、貿易の対象にしようとするもので、92年リオ地球サミットで採択された「森林原則協定」の基本となった。
筆者が最も注目しているのは、持続可能な開発の中心の概念である「環境と開発の調和」が、明らかに開発の主張を強める社会現象を日本へもたらしたことである。
持続可能な開発を達成するために「環境保全を開発過程の一部分とする」考えは、本来途上国の貧困による自然生態系と環境への負荷を軽減するための資源開発論議だった。それが豊かさの追求による環境破壊が進行する先進工業国の開発現場でも強調され、行政と産業界による経済成長=持続的発展の要求を裏打ちする開発主導の考えとして日本でも主張されるようになった。
官庁と企業の環境関連文書の表記は「環境保全」(conservation)に統一され、その必要がある場合でも「環境保護」(preservation)を用いることはなくなった。環境は保護しつつ利用する資源であり、保護するものではない、との考え方である。自然保護規定の強化、土地利用の制限を回避しようとする意図があるとみられる。ブルントラント報告を外圧として逆手に取り、国内の環境保護セクターを牽制するやり方である。
そしてブルントラント報告を継承した、92年リオデジャネイロでの第二回国連環境会議を機に、地球サミットの正式名称は「The United Nations Conference for Human Environment」に加えて「and Development」と併記されるようになった。
ブルントラント委報告書から20年。自動車排ガスによる窒素酸化物汚染公害の東京大気汚染訴訟で、2007年、原告が事実上勝訴した。自治体の大気汚染指定地域解除反対の論拠の正しさを30年がかりで証明する形となった。石綿公害の被害はブルントラント委報告から20年経った2006年、爆発的に顕在化した。
「緑の地球経営戦略」にもかかわらず、木材輸入の際限ない需要は、熱帯雨林からシベリア極東部のタイガへ及んでいる。違法に伐採された熱帯林産材の輸入も後を絶たない。ワシントン条約を脅かす日本の社会構造にも変わりはない。
開発を環境基準内に収める科学的な認識ではなく、環境基準を開発の必要性に適合させる開発優先の政治状況に立脚して、環境保全は開発過程の統合の一部であるとするパラダイムが、果たして持続可能な開発の前提でありうるのだろうか。疑問は尽きない。ブルントラント首相はこのような思考が国際政治の舞台で、「ナイーブ」と目されてきたことに注意をうながしているのだが。
近年、世界の相互依存関係が益々進展しグローバル化が進んでいると言われるが、環境問題での相互依存関係は経済関係のようには目に見えにくく、対応も遅れがちである。しかし、地球環境の劣化は少しずつであっても確実に進んでいる。一旦破壊された環境を元に戻すのは至難であり、協力して早く対策を取らなければ文字通り取り返しのつかないことになる。このような認識が広められたのは比較的最近のことであり、その大きなキッカケは「持続可能な発展〔開発〕」という概念を整理して発表した1987年の「ブルントラント報告」であった。
この報告はその後、国連を中心にファローアップされ、92年には国連環境開発サミット(リオ・サミット)という人類史上最大規模の首脳会議が開催され、その10年後の2002年にもヨハネスブルグ・サミットが開かれた。いわゆるミレニアム・サミットもブルントラント報告の流れを汲む、と言ってよい。こうした中で気候変動、生物多様性保全やオゾン層の保護など、多数の条約も結ばれた。温暖化についての京都議定書は、気候変動枠組み条約をいわば具体化したものである。「持続可能な発展」と言う概念の奥行きは広く、道のりは遠いが、ブルントラント報告を契機として持続可能な開発、環境問題は主要な国際政治問題と認識され、外交課題としても大きく取り上げられるようになった。
以下、気候変動についての京都議定書の交渉〔97年〕とその実施細目を定めたマラケシュ合意〔02年〕について、環境外交の現場を垣間見た者として印象の一端を紹介したい。なお、後述するように、一口に地球環境問題と言っても特に温暖化問題では国によって利害や理念がかなり異なっている。従って、交渉の現場は多国間の貿易交渉を髣髴させるような対立や「せめぎ合い」があり、「多数派工作」、「独り勝ちはないので互恵互譲を」といったことも必要になる。交渉は、一筋縄では済まない。ただ、これは外交技術・外交の足腰に属することであり、より基本的に重要なのは、温暖化問題にせよその他の地球環境問題にせよ、日本自身は何をする方針なのか〔「何をしたくないのか」ではなく〕、世界に何を提案したいのか意思を明確にすることである。前者の点で改善強化を要する点は多いが、外交の現場に出て他の国と接するときに特に強く感じたのは後者の点であった。
既に指摘されていることであるが温暖化問題には次のような特色があり、同時に、それが問題を難しくもしている。
温室効果ガスは経済活動に伴いほぼ必然的に発生するものである。このためややもすると、温室効果ガスの規制は経済発展と二律背反的にとらえられている。これには勿論反論があるが、化石燃料への依存を習い性としてきた産業からすれば、石油価格の高騰から自らを護るために省エネを促進することは必要であり合理的であっても、温暖化の防止のために通常以上の努力をするのは、今ひとつ積極的になれない。国際場裡でも、経済活動との関係が深いがゆえに先進国対途上国〔南北問題〕の色彩も色濃く出てくる。発展途上国にしてみれば、温室効果ガスを大量に排出してきたのは先進国であり、その後始末もひとえに先進国の責任である、自分たち発展途上国にも経済発展の権利があり、途上国の工業化に伴う排出を規制するのは不当・不公平、ということになる。
二番目の特色ないし難しさは、温室効果ガスの排出は人々の殆ど全ての活動に根ざしていることである。冷房、テレビなど電気を利用する便利な生活は温室効果ガスの排出を伴う〔原子力発電などを別にして〕。自動車も同様である〔ガソリンでもディーゼルでも〕。生活のパターンを変えてでも温暖化防止に協力しようというのは難しいことであり、「将来世代が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく現在の世代のニーズを満たす」という「持続可能な発展」との関係では、どうしても前段の方には注意が向きにくい。
同じ地球環境問題でもオゾン層保護条約の場合は、規制しなければならない工場が特定できたから対処し易かったとしても、排出源が広範多種の温室効果ガスの場合は事情が異なる。70年代に日本で産業公害が問題になったとき、加害者も被害者も特定し易かったので対策も講じ易かったと言えるが、温暖化の場合、全員が加害者であり被害者でもあるようなので、誰がどれだけ温暖化防止の責任とコストを負うべきなのか?環境税や排出割り当てなどを設けるのかどうか、社会のコンセンサスが得られにくい。
以上のような特色は国際政治の場にも投影される。最近の事態は直接知る立場にないが、マラケシュ合意の頃から類推すれば次のような色分けであろう。
EUは周知の通り2020年までに自主的に1990年比20%削減する用意があり、他の国も同様の措置を取るのであれば30%削減しよう、と言っている。地球の温度上昇を産業革命当時に比べて2℃の上昇にとどめる、という大きなヴィジョンもある。
京都議定書の交渉でEUは「2010年までに15%削減」を提案していたが、今の見通しでは京都議定書での約束(2012年までに8%削減)を努力して達成しようとしている。この経緯もあって、20%ないし30%削減は本気なのだろうか、交渉上のタクティックスにすぎないだろう、との見方がある。EUには、排出大国米国を引っ張っていくためには強めの提案でリードするしかなく、中国に意味のある措置を取ってもらうためには自ら範を示さなければならない、との考えがあるのかもしれない。リーダーシップをとろう、というのである。動機は様々なのだろうが、こうしたことを別にしても、欧州・EUでは国民世論の関心がきわめて高く、それに政治も呼応したからこそこのような大胆な方針が打ち出されたのは確かである。
京都議定書など環境条約は主として国連の場で交渉されるが、国連で途上国は結束して対応することを常としている。しかし、途上国といっても温暖化についての立場は実は一様ではない。例えば太平洋の島嶼国は温暖化による海面上昇により海没しかねないので強力な対策を求めたい。ところが産油国にとって、規制強化すなわち脱石油は死活問題であり、反対である。アフリカのきわめて貧しい途上国は、温室効果ガスを排出して工業化を進めるアテもないほど苦しい立場にあるが、中国・インド・ブラジルなどのいわば中進国は大いに工業化を進めつつあるので、温室効果ガスの排出規制によって成長に歯止めがかけられることは到底受け入れにくい。
立場はマチマチではあったが、前回の交渉では、途上国は「責任は先進国にある。先進国だけが数量規制を行うべきである。」という最大公約数の下に団結した。中国などは団結した途上国グループの陰に隠れて、数量規制を避けることができたのであるが、これからはどうであろうか。例えば中国は京都議定書交渉当時とは違って「経済大国」になりつつあるので他の途上国の陰に隠れにくい。近年の高度成長を支えるためにはエネルギー効率の改善を図らなければならないことを認めているのであるが、それは温暖化防止にも繋がることであり「温暖化防止は私とは関係ないことです」とも言いにくい。しかしそれでも、「先進国との衡平」は譲れないところであり、であるからこそ規制の方法として、一人当たりの排出量を基準とすることなどを主張するのであろう。因みに、中国の一人当たり排出量は年3.1トン(CO2換算、04年)、米国は19.7トン、日本は9.5トンである。
世界最大の排出国米国に国際規律に服してもらうことは、京都議定書を交渉していた当時の最大の目標の一つであった。当時民主党政権であった米国は、交渉姿勢が色々と変わっていったが基本的にはEUの「急進的な」立場に懐疑的であり、途上国の義務について強く要請していた。1997年12月、京都での徹夜の交渉でゴア副大統領をヘッドとする米国を含めて困難ながら合意が成立したのであるが、二年後に発足した共和党のブッシュ政権はアッサリとこの合意から離脱することとした。その理由として、京都議定書のような規制は経済コストがかかりすぎる、発展途上国の義務が不十分である、等があげられたが、離脱決定はかなり政治性の強いものである、と言われた。ブッシュ政権はクリントン的なものからの決別を標榜しており、この京都議定書はクリントン・ゴアが関与した合意であるだけに、引継ぐ訳には行かなかったのだろう、と言われた。
そのブッシュ政権も徐々に軌道を修正し、2007年のハイリゲンダム・サミットの直前に、主要排出国の会議を開いて温暖化対策について2009年までに合意を図ろう、と提唱した。最近ブッシュ大統領も出席してワシントンで開かれたのがこの会議である。
ブッシュ政権は、政府による統制を排する共和党的理念がそうさせるのかもしれないが、EUのような義務的な数量制限には反対である。建築基準の改善などによる省エネの促進といった政策・措置を内容とする対策を各国が自主的に定め、相互にレヴューしあうことによって補強する制度を提案している(「自主的」を強調するのは、自らが強く縛られるような国際規律を好まない米国的な発想なのでもあろう)。また、温暖化防止のためには抜本的な技術革新が必要であることを強調、クリーンエネルギーの開発などを主唱している。
上に見てきたような各国の立場にかんがみれば、米国提案がそのまま国際社会の同意を得るのは難しそうである。ブッシュ大統領はあと1年数ヶ月で政権を去る立場にあり、その後は民主党政権になるかもしれないことも交渉に影を落としているのであろう。しかし、とにかく話し合いは始まった。今後紆余曲折があるに違いないが、少しずつ京都議定書の「次の一歩」が踏み出されようとしている。
安倍総理〔当時〕は「美しい星」演説で2050年までに世界全体で排出量を少なくとも50%削減することを提唱、6月のサミットでも注目された。ポスト京都議定書の国際的枠組みとしては以下の三原則、つまり [1] 全ての主要排出国が参加し、京都議定書を超え、世界全体での排出削減につながること。 [2] 柔軟かつ多様性のある枠組みとすること。 [3] 環境の保全と経済発展とを両立すること。 を挙げている。今後、国連の会議や来年の洞爺湖サミットなどで温暖化問題は集中的に取り上げられるが、日本は、「2050年までに半減」とか「三原則」とは具体的に何なのかを明らかにしなければならない。
「省エネの進んだ日本は乾いた雑巾のようなもので、これ以上絞っても何もでない」というだけでは、「守旧派」(6月24日の日本経済新聞論説)とされたり、「日本は消極派のレッテルを貼られてしまう」(9月28日の朝日新聞社説)懸念がある。「全ての主要排出国が参加」が望ましいのは当然であるが、参加を優先するあまり中味を薄くしたのでは意味も薄くなる。「柔軟かつ多様」もその具体的内容次第であろう。第三の原則「温暖化防止と経済発展の両立」こそが最も重要であり、これを「第一の原則」と位置付けて具体策を練るべきである。それが、ブルントラント報告の「持続可能な発展」論に即したものでもあり、結果的に、第一、第二の原則にも繋がるものである。
生物を保護する、生物種を絶滅から守る、様々な生物種を含む生態系を保存するというような一連の生物保護が、何のために行われるかという論争は、最近の環境倫理学の中心的な話題である。一方には人間中心主義を否定するディープエコロジーの陣営がある。他方には、「人間のため」という視点をまったく排除するような倫理はあり得ないと主張する環境プラグマティストがいる。
倫理というのは、もともと人間と人間の関係の理法である。「非人間対人間」の倫理は厳密に言えばあり得ない。一見、自然と人間との「共生」「原始契約」(リュック・フェリ)というような枠組みが作られたとしても、それは倫理性を構築するカテゴリーの一部にすぎない。たとえば所有権の枠組みには「人格が物件を所有する」という「非人間対人間」関係が含まれるが、所有権という概念そのものは、ある人の所有は他の人と同等に保護されなければならないという平等の概念に帰着する。
自然との共生を尊重するということは、ある人にとっての義務が他の人にとっても平等に義務となると言う意味であって、その点では、自然保護の倫理といえども、人間が自然を所有し、人間の意思に従って処分するという関係を排除できない。倫理性の構造的な要件として排除できないということと、人間が自然を所有する、利用する、搾取の権利があるということとは別である。環境倫理が、倫理性のカテゴリーそのものを否定しているかのような構造的な設定をともなうが、倫理性という関係の枠組みと倫理性の内容とを混同した議論が多い。
ということは環境倫理にとってきわめて本質的なことであって、いま「混同」すなわちカテゴリー・ミステイクが発生していると述べたが、もしかしたらカテゴリー・ミステイクは不可避なのではないかということも視野に入れておかなくてはならない。
倫理的な場は歴史的ではあり得ないが、環境倫理学の場は歴史的でしかあり得ない。「汝の意志の格律が普遍的な立法の原理となるように行為せよ」というカントの定言命法は、実際にはカントが日常的に出会うケーニスベルクの市民を含んだ相互性の倫理であろうが、しかし、一人一人の市民は、叡知的共同体の一員とみなされている。歴史のない永遠の共同体の一員であるということが、世俗的な市民であることと重なり合っている。その重なり合いをささえているのが、俗に「二世界論」と呼ばれる存在論的な想定である。私は感性的な人間(心身統一体)であると同時に超感性的な存在(叡智的な存在)である。この「二世界論」がカントの倫理学を支える存在論であるということは初等的な知識に属するが、さて、二世界論が消滅したら、倫理性が成り立つだろうか。
私が人を殺す。殺した瞬間に被害者は人格から物件に転化している。被害者の人格はもはやないのだから、私の被害者の人格に対する責任もなりたたないはずである。二世界論ならば、殺人の責任の成立は明確に説明できる。
ハンス・ヨナスの「責任の原理」がどのくらい、根底的にカント倫理の根本問題と環境倫理学とを視野に入れていたかということは、はっきりしない点もあるが、ヨナスは直感的に環境倫理学がカテゴリーミステイクか、あるいは、カテゴリーミステイクすれすれの理論であることに気づいている。
「世代間の公平配分」が環境倫理学の基本原則だと主張する人がいる(断っておくが、私もヨナスも、現在世代は未来世代の存在に責任を負うと主張しているのであって、配分の公平を主張しているのではない)。現在世代と未来世代の間の、現在でも未来でもない、架空の時間の中に立って、現在世代と未来世代の間の資源配分の公平をはかると仮定しよう。
10単位の石油が存在すると仮定すると、現在世代と未来世代の公平な配分というのは、一人についてXバレルという形で定められるだろうか。10単位の石油が存在しているときに、自分の配分量を採取することはたやすいが、9単位の存在の場合は同じたやすさでは採取できない。配分という概念は、同時性をもつ場で想定されているが、石油のように歴史的に形成された化石という有限量を無限に続く時間の中にいる世代間関係で配分すると想定すること自体が無理である。
ブルントラント報告の、「持続可能的な開発とは、未来の世代が自分たち自身の欲求を満たすための能力を減少させないように(without compromising the ability of future generations)現在の世代の欲求をみたすような開発である」という持続可能性の定義は、資源について現在世代と未来世代が奪い合いの構造になっていること、たとえば核廃棄物について未来世代が一方的な被害者であるという利害の対立を覆い隠している。
廃棄物を累積させてはならない、生物種を絶滅させてはならない等々、環境倫理学の直接的目的は歴史的な時間のなかの出来事として記述される。世代間の配分という文脈で考えるなら、そもそも公平ではありえない条件のなかで公平を主張していることになる。
「廃棄物は必ず浄化して戻しておくべし。化石エネルギーの消費は、かならず循環型資源で補填すべし。生物種の絶滅は、ゼッタイに許せない。」このデイリー(エコロジー経済学者)的条件を守れば、持続可能性が成り立つ。同時にこの条件は倫理性の場を成立させてもいる。しかし、化石燃料が枯渇しても、人類が循環型資源をつかって生き延びていく条件を現在世代が未来世代に与えることに成功したら、最低限の義務は果たしたということになるだろう。現在のわれわれに問われているのは、消費した化石燃料を循環型燃料で補填するかしないかという問題ではない。補填できないことは判明している。
資源が枯渇し続け、廃棄物が累積し続け、生物種が絶滅し続けているとき、同一の条件がなりたつ倫理的な場が存在しない。徹底的な相対化をすれば、自分が何かの行為をする以前の資源・廃棄物・生物種の状態で自分のそのときの配分量以上に消費してはならないという変化する配分量を守れと言う倫理になるだろう。
徹底的に歴史的な状況に身を置いて「大気中の炭酸ガス濃度は産業革命以前の大気中の炭酸ガス濃度の二倍を超えてはならない」という基準設定することは、産業革命以後の世界を同時的な場と見なすことを含んでいる。
倫理の原型は、正義(公平)である。「同じものを同じにあつかうべし」が根本の原理である。自分が受けていいと思うことなら他人におよぼしてもいいという自他の相互性は、カント、近代市民倫理等ほとんどの倫理の原理となっている。ところが環境倫理の問題では、同じ状況が厳密な意味では成り立たない。現在世代と未来世代との間で、同じ量の資源配分を可能にせよという義務づけは、実行不可能なのだから、実行可能な義務を提示しなければ、環境倫理はなりたたない。
進歩という理念が、いつも未来世代は現在世代よりも有利な生存条件におかれるという思いこみを生み出している間は、未来世代と現在世代の利害が対立し合うということは、だれも思っても見なかった。資源問題は、国際間の獲得競争をまねき、資源ナショナリズムという形で、新しい冷戦型の国際秩序を生み出しかねない。どの国が資源の獲得に成功したとしても、それは他国が獲得することを妨げているだけでなく、同時に未来世代が獲得することを妨げている。現在が豊かになればなるほど、未来が貧しくなる。ナショナリズムは非合理的な情熱を含んでいて、ナショナリストは平和主義者に対しては、現実主義者の態度を見せるが、最後には、悲惨な結果を現実に残す結果になったとしても、敵国に勝利することを求めて未来の国民の生存の可能性をせばめる。
資源ナショナリズムの危険を予防するためには、実行可能な義務を提示しなくてはならないが、現実には世代間の資源配分の公平という実行不可能な義務が提示されている。
ローマクラブの第一次報告「成長の限界」(1972)は、ひそかに人間にとっての生態系の劣悪化が、資源の枯渇に先行するだろうという予測を含んでいたように思われる。ローマクラブ報告の使った基本的なシミュレーションのなかには、新しく先進国に仲間入りしようとする国家群の指導者にとって、資源利用の制限をすることは、国家を大混乱に陥れる原因作り出すことになるので、いかなる犠牲を払っても排除しなくければならないということは、視野の外にある。
環境倫理学は、生物種の絶滅を防ぐ、未来世代の生存条件を保障する、資源の枯渇と廃棄物の累積を防ぐという具体的な目標を想定して、人間の所有対象だけを保護する法体系、現在世代の未来世代のエゴイズムを制限することができない民主主義的な政治体系、経済外的な資源と環境の長期的な劣悪化に対応できない経済機構のどれもが、環境問題の合理的な解決を妨げる要因になっていると指摘してきた。
とくに劇場国家とよばれるようにマスコミ情報の場の中で人気取りを続けなくては政権の座にとどまれないという政治の体質が、長期的合理的な予見に基づく産業政策の遂行を困難にしている。政治に向かって、実行可能な持続可能性の達成を指示するような知的作業が必要である。
地球規模の天然資源と環境の持続性と人々の安寧を保障するための国際協調行動の歴史上で重要な役割を果たした「環境と開発に関する世界委員会」、いわゆる「ブルントラント委員会」は1987年に『Our Common Future われら共有の未来』報告書を発表し、“今こそ行動を!”と呼びかけた。
その後の20年間に、産業界や金融業界が資源・環境面の持続性や社会貢献の意味を理解し経営方針や事業に積極的に導入するようになり、草の根から国際的な団体まで多様な形態で活動する市民セクターも活発になり、重要な役割を果たすようになってきている。
だが現在、人口は途上国で増加し、世界経済も成長しつづける一方で、貧富の格差は南北間だけでなく先進国内でも広がり、悲惨な暴力行為は大規模な殺戮兵器と自爆という極端化や、国内の殺戮等と複雑化し、軍事費は膨大な額に達している。我々の生存の基盤である地球生態系の構成要素の淡水や海洋や土壌は汚染や劣化が進み、植物や動物は減少や消滅等が加速し、気候変動は予測以上の速度で影響の深刻さが増している。ついに、欧米や日本の生活様式を世界中の全人口が行うと、地球があと二つ以上も必要なまでになっている。
先進国に生きる人々は、地球上の多様ないのちや生態系の未来に対して、20年前よりもさらに重大な責任を果たさなければならない。来年2008年にサミットホスト国として再び重要な役割を担うことになる私たち日本人は、何をすべきなのだろうか。
1997年の気候変動枠組条約第3回締約国会議で採択された京都議定書が2005年2月に発効したため、第一段階の2008年から2012年までの5年間で日本は温室効果ガスの平均排出量を基準年(CO2、CH4、N2Oは1990年、HFC、PFC、SF6は1995年)から6%削減の遵守が課せられている。2006年10月17日の環境省発表では、2005年度の日本の温室効果ガス総排出量が基準年を8.1%上回るため、実際は14.1%の排出量削減という厳しさにある。
今年2月の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告では、平均気温の上昇幅が1990年比で2〜3度超えると、水不足、海面上昇、暴風雨などによる被害が増えるほか、干ばつが各地で頻発し、農作物生産などの生命系維持に深刻な影響が出るため、気温の上昇幅を2〜3度以下に抑制するために、増加し続ける温暖化ガス排出量を2020年頃に減少に転じさせ、2050年までに半減するよう求めている。
2013年以降の対策、「ポスト京都議定書」の議論がすでに始まり、今年6月のサミット(主要国首脳会議)では、日本政府提案の「美しい星50」が盛り込まれ、世界の温暖化ガス排出量を2050年に現状から50%削減すると宣言された。だが、この「50年半減」の達成には先進工業国だけでなく、すでに米国の総排出量を越えている中国やインド等の著しい経済成長を続ける途上国を含めた新たな国際的枠組みが不可欠である。
来年は、京都議定書目標達成の第一段階開始の年であり、日本がサミット開催国となる。このサミットでは、今年9月下旬の藩基文事務総長主導の気候変動に関する初の国連ハイレベル会合、ブッシュ政権主催の主要排出国会議、12月バリでの国連気候変動枠組条約第13回締約国会議の成果を踏まえての「ポスト京都」議論が主題となるだろう。IPCCとゴア元副大統領の2007年ノーベル平和賞受賞はそれを加速させることだろう。
いろいろ課題を抱えながらも気候変動問題に対する国際協調行動を前進させる役割を果たしてきた京都議定書の後の枠組み議論をより確かなものとする役割を、来年再び日本は担うことになる。日本の政府、企業、市民セクターは、これまでの経験と教訓を基に、「50年半減」のための日本の60〜80%削減に対する覚悟と大胆な戦略を準備する時がきている。
ブルントラント報告書公表の2ヶ月前の1987年2月に東京で開催された委員会全体の閉会式で「東京宣言」が発せられ、中曽根首相が挨拶をしている。「わが国としても、国際社会と我々の子孫の共有財産である地球環境の保全のため、わが国の技術と経験を生かし、より一層積極的な役割を果たしていく所存である」と。だが、同首相は実際の経済政策に「持続可能な開発」の概念を導入することもなく、日本経済は空前のバブル現象を起こしていた。日本は国連の重要な歴史的テーマに貢献したにもかかわらず、その考え方を指針として未来の国のあり方や長期的な方針を策定することもなかったのである。
その後、歴史上重要な1992年6月の国連環境・開発会議(リオ・地球サミット)に、経済大国第2位の日本の宮沢首相はPKO法案に反対する野党の国会での牛歩戦術のために欠席。1997年12月に京都で開催され法的拘束力をもたせる京都議定書採択という歴史的会議に橋本首相は挨拶だけで東京に戻り、会議最終日の朝に会議議長役の環境庁長官を内閣不信任決議の可能性を理由に東京に呼び戻そうとさえした。一方、米国ゴア副大統領は専用機で飛行中に仮眠して来日し、削減目標数値を米国7%と決めるまで半日以上滞在したというのに。この時の責任を果たすための彼の行動が映画『不都合な真実』となり、今年のノーベル平和賞へと繋がっている。
2001年9月11日以後は、イラク攻撃に逸る米国政府を「人間の尊厳を求める」歴史的希求に基づいて諌める代わりに、小泉首相は、米国の先制攻撃で戦闘地化したイラクに自衛隊を派遣してしまった。また、今年6月のサミットで誇らしげに「美しい星50」を提案した安倍首相は、年金問題や相次ぐ閣僚辞任問題などで、参議院選挙で国民の支持を失い、9月の国連事務総長主導の気候変動に関する初のハイレベル会合開催前に辞任してしまった。
このような経緯をふり返ってみると、日本の政治リーダーたちは、「ことば」と「行動」と「責任」とをどのように一貫させてきたのか、そして、「人間は何を希求してきたのか」という歴史的命題を認識しているのか、という疑問が生まれてくる。
人間の経済活動は地球上の天然資源を原材料として、モノを造り、消費し、廃棄物を排出するという形で行われてきた。この活動の規模が20世紀後半から地球生態系の許容能力をこえるほどになってきたために、各国内でも、また国際的にも、さまざまな対策が取られてきたが、しかし、既存の対策のほとんどは、原材料調達・加工品製造・廃棄のフローを細めるものでしかない。一方、地球の生態系はやせ細り劣化しつづけている。だが、まだこれからも増加する人口と今の貧しい生活水準の向上を目指す人々は食物や生活用品の原材料など、より多くの天然資源を必要とする。
この危機的状況を前にして、私たちは生存のために、生態系や生命系の保全と回復を図る大胆で革新的な対策の実施と同時に、限られた原材料でどのような加工品を製造するのかということについて全く新しい発想が求められている。その場合、1972年の人間環境宣言から策定されてきた主要な国際条約や協調行動等のすべての努力は、人間を含めた“多様ないのち”がその進化能力を発揮できる条件を確保するものでなければならないという根本的視点からぶれてはならない。こう認識した上で、私は、主として他地域の天然資源を原材料として輸入し工業製品を製造し輸出するという産業構造に依存して経済大国第2位となった日本が、これから果たすことのできる役割を三つ提案したい。
現在求められている気候変動対策は、特に石油に依存する米国型資本主義経済の構造を、地球の“生命系の能力”を維持しつつ経済活動が可能となる産業構造へと転換する大挑戦といえる。これは米国関係者が主導する責任を担っており、特に次政権で対策が一気に進むことを期待したい。
一方欧州は1970年代から選択してきている独自の政治・経済方針のもとで、気候変動政策を立てて米国や日本に積極的に協調行動を働きかけている。また、有害化学物質の製造・消費・廃棄の管理では先駆的に対応している。
そこで第一の提案として、日本は、米国や欧州の努力に協力あるいは協働しつつ、日本の誇る省エネや環境技術と資金とを創造的に活用し、ビジネス上からも貢献できる制度や経済・金融手法を導入して、地球規模の問題に対して役立てることである。その際には、最先端のエコロジカルな技術の開発・移転だけでなく、忘れられた手元の“宝物”としてまだ各地に残っている少し古いかもしれないがエコロジカルには適切な技や工芸を、「人類の希求と生命系の進化能力の維持」という文脈で磨いて創生すれば、持続可能な未来創りの具体的な手段として新たな輝きを放って貢献するのではないだろうか。
提案の第二は、地球の生命系や生態系サービスに感謝を表すアクションである。2010年に生物多様性条約第10回締約国会議が愛知名古屋で開催される。この機会に意義のある貢献ができないかと考えての一案である。私たち人間が毎日他の“いのち”を頂くことで生存できることを真摯に認識し、一方的に頂くばかりでなく、逆に“頂いた多様ないのちを地球に還してゆく”ための論理を整理し、様々なアクターが具体的な行動を起こす仕組みと、その行動を支える制度や資金源を確保することである。すでに日本の各地で部分的に先駆的な動きが始まっているのはこころ強い。それらを結び付けて、日本や世界各地で、“多様ないのちを育てて、還してゆく”行動へと展開させて、地球の生態系の能力を大規模に回復させる方策のひとつとすることである。
提案の第三は、多様な命と市民の視点を尊重する未来ビジョン創りである。1992年のリオ・地球サミットで採択された『アジェンダ21』で、持続可能な発展を実現するには社会の多様な構成者の参加による意思形成メカニズムが必要と勧告されたのを契機に、世界数十ヶ国でマルチステークホルダー参加の国民評議会が創設された。日本でも1996年7月に「持続可能な開発のための日本評議会(JCSD)」として、初めて市民組織(CSO)関係者が行政府の審議官や産業界の役員等と対等な立場で政策対話を行おうと試みる唯一の仕組みがつくられた。それ以来JCSDは1997年のリオプラス5会議開催や気候変動の京都会議開催に協力したり、ヨハネスブルグサミット等でフィンランドや韓国の評議会等と連携や協働を展開してきている。また、多様なセクターの関係者が先駆的に進めている好事例とその全体像をジャパンレポートにまとめ、国際的な発信を行ってきてもいる。
設立10年を経て新たな段階に進んだJCSDの活動のひとつとしては、多様な命と市民の視点を尊重する未来ビジョン創りがある。これは、多様な市民組織や企業の好事例に光を当て、それぞれは小規模だったりするが歴史的な流れを創っている大切な役割である意味を大枠の中で位置づけ、彼らの努力を支えることになる。これはまた、経済再生と健全なコミュニティづくりに通じ、さらに、民主主義におけるコンセンサス形成を重視するアプローチでもある。あるレベルのビジョンが創られた段階で既存の制度との整合性を図る作業を行いつつ、アジア地域の類似の組織と協働で東アジア地域のビジョンを創り共有しながら、米国や欧州や他地域にも呼びかけてゆく。
このような活動を展開することは、経済大国になった私たち日本人がこれまでの様々な恩に感謝して、人類が築いてきた人道上の価値観と、46億年の歴史を有する生命系進化の可能性との双方を、未来につなげる役割を担うことであり、日本人の自己向上の機会ともなると期待できる。
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